今年の大河ドラマ『八重の桜』、皆さんご覧になっていらっしゃるでしょうか。
会津藩出身の山本八重を主人公にして、幕末から明治にかけての騒乱の時代を舞台にした物語ですが、実は、来年開府400年を迎える高田藩も、この戊辰戦争の動乱に関わっており、その折の戦死者のお墓が、金谷山に残されています。
会津戦争の折の壮絶な戦いは有名ですが、高田藩がどんな動きをしていたのかはほとんど取り上げられることがありません。
・・・ということで、今後上越を訪れた方にそんな歴史を紹介できるようにと、上越観光協会のメンバーで金谷山まで見に行ってきました。
昔は山越えの旅人を泊めた旅籠がたくさん並んで栄えていた、金谷山入り口の道を登っていくとすぐ目に入ってくるのが、薩摩・長州の戦死者のお墓です。
奥の塀のすぐ前にある白くて大きなものが薩摩の共同墓碑、手前の白いものは長州の個人個人のお墓です。日当たりのいい高台に作られていて、積雪の多い金谷山でも早くから雪のなくなるところです。
それとは対照的に敗戦した会津藩士の墓地は、山の裏手の森にひっそりと作られていました。
家康の六男、松平忠輝が開いた高田藩は、諸代名門、徳川四天王であり、当然幕軍につくべき立場なのですが、急激に時代が変化する中で徳川派と朝廷派に割れ、同じ高田藩の者が会津で戦うこともあったのだそうです。
上越市史によると、会津が降服開城したあと高田藩は新政府から会津藩の敗残兵1700人余りを受け入れるように命じられ、「敗れた者の立場が戦時以上に苦痛で冷遇できない」として、16800両に達する出費をしたものの、新政府が約定した預かり手当ては事実上反故にされ、厳しい財政難に陥ったとのこと。
このときに敗残兵を受け入れたのは現在の寺町にある各お寺です。そこに宿泊設備をつくり、生活用品を支給、医師も配備して怪我人の処置にあたったものの、明治3年、新たに斗南藩が再興されるまでの1年半の間に67人が落命し、この会津墓地に眠っているのです。
そんな歴史背景を知ると、寺町や、スキーの発祥地として知られている金谷山の見方も変わって来るのではないでしょうか。